「武田信玄の古戦場をゆく」安倍龍太郎 集英社新書11/15刊
謙信の2度の上洛は当然日本海ルート。
信玄の執拗な北上は信濃制覇だけでは留まらない勢いがある。
信玄は、二十一歳で武田家の当主となって以来、向かったのは北進という戦略だった。なぜ信玄は天下に覇を唱えるならば、京都に向かっていく南進政策を採らなかったのか。この背景にはどういう理由があるのか。著者は、このナゾを民俗学者の網野善彦が唱えた「信玄が北へ北へと行きましたのは、私は日本海に出て、日本列島を横断する道を押さえようとしたのではないかと思います」という説を知り、目からうろこが落ちる気がしたという。
世界日報の書評より http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk061203-6.html
1564年頃から今川氏との関係もあり対外戦略が変更される。
東海道での西上作戦が当然の成り行きのように考えるのは実態に即していないかもしれない。
大河「風林火山」関連本の刊行が相次ぐ。
従来の定説やお約束事をなぞるだけの内容ではつまらない。